S A Y O N
( 旧サヨン食堂 )
■住所 : 福岡市東区箱崎3-9-35
■電話番号 : 092-641-0483 /090-8835-0166
■営業時間 : 17:00〜25:30(日曜定休)

創業は昭和22年、場所は帝大前(路面電車の終点、九大前電停の目の前)、学生向け食堂で一番の老舗といえばここ、サヨンです。お店の歴史が大学の歴史を物語り、お店の変化が学生の変化を物語るほどに、大学・学生と共に歩んできたお店です。初代大将・安武清左右衛門さんは他界されましたが、現在も現役でお店を切り盛りする3人、初代女将さん・村子さん(85)、二代目大将・昭祐さん(64)、二代目女将さん・憲子さん(63)にお話を伺ってきました。

◇お店の沿革


清左右衛門さん(左)、昭祐さん(真ん中)、村子さん(右)

まだ帝大時代の昭和5年、清左右衛門さんは親戚と共に箱崎キャンパス内で食堂を始めた(当時は大学生協などなく、外部の業者が学内で食堂を営んでいた。ちなみにこの親戚の方は後に喫茶店・プランタンを正門前にて開業)。戦後になり現在の場所で「サヨン食堂」を開店。長年九大生の食堂として賑わってきたが、平成6年に食堂を改装して居酒屋へ。屋号も「サヨン食堂」から「SAYON」へと変わった。

店内の書・サヨンの鐘


食堂時代はカウンターがなくすべてテーブル席、50人ほどが入れる広さだった。
店名の由来は台湾原住民・高砂族の娘の名・サヨン(出征する日本人の警官を見送るために命を落とした少女の悲劇の物語)に由来する。清左右衛門さんが海軍航空隊所属で台湾に駐屯していたときにそのことを知り、そこから「サヨン」をとったという。

■名物メニュー 焼肉丼

「九大の学生で焼肉丼知らんかったらモグリ、あんたホントに九大の学生か!」


焼肉丼(現・松中丼)

店先の「松中丼有ります」看板
サヨンを語る上では欠かすことのできない、いわずと知れた名物メニュー。食堂時代から現在まで続くこの丼ぶりは、長きにわたり食欲旺盛な九大生の胃袋を満たしてきた。大盛りのご飯(約1合半)の上に肉と野菜炒めをのせ、手作りの特製ダレがかけてある。このタレが癖になる味。
多いときは一日100杯、昭祐さんいわく「もう、怖い、ありえないくらい大変やった」そうである。アメフト部やラグビー部の部員は集団で来店し、焼肉丼を大盛り(ご飯2合分!)で頼むため、一釜35合の釜で交互に炊いてもご飯が追いつかないことがしばしばあった。昭祐さんは今でも冬に米をとぐと肩が痛いそうで、九大に隣接する食堂ならではの職業病である。
食堂から居酒屋へと改装する際、常連客から「大将、他のメニューは変えてもよかけど、焼肉丼だけはおいとって下さいよ」と懇願され、今でも残っている。
FBSの取材を受けた際、ホークスの選手の名前を付けてくれと頼まれ、以後「松中丼」として親しまれている。

ホークス選手のサイン色紙


小久保が怪我をして松中が4番になったとき、打てない時期が続いていた。丁度そのときテレビの取材があり、ホークスの選手の名前をつけてくれと頼まれる。それで松中丼に。その後毎日新聞で「松中丼」と大々的に報道されたため、結局正式名称・松中丼へと(ちなみにその年に松中選手は三冠王を獲りました)。ホークスビジョンに松中丼がドーンと出たこともあるそうです。
ホークスの選手が来店することもしばしば、店内にはサイン色紙がたくさん飾ってあります。

■市電と学生運動


九大前電停周辺(1975年)

現在の九大前電停(2007年)
サヨンは路面電車・姪浜線(貫線)の終着駅、九大前(帝大前)電停の目の前に店を構えている(路面電車の路線廃止は昭和50年)。線路の上から舗装してあるため、コンクリートをはいだら今でも線路が残っているそうである。どんたくの時、花電車が目の前で折り返し、華やかな光景だった。

花電車、場所は赤坂門近く(1975年)

サヨン横に停車する電車(サヨン提供)

昭祐さんがこの電車で一番思い出すのは60年代の学生運動。1968年、エンタープライズの佐世保寄港、米軍機ファントムが九大に墜落するなど当時の大学は勉強ができる空間ではなかった。博多駅(抗議集会)経由で佐世保に向かうべく、竹ヤリを持った多くの学生が九大前停留所に集まっていた。しかし市電の運転手が「おまえら、竹ヤリを全部捨てれ、竹ヤリもって電車に乗ンな、捨てたら電車動かす」といい、学生は学生で運転手を取り囲んで糾弾。運転手も折れなかったため、電車は九大前停留所でストップ。後続の車両がつっかえ、千代町まで電車が並んでいたという。運転手が車両を降り、サヨンの前に座り込んでいたのも忘れられない一コマである。警官が出動し事態は収束、結局学生は竹ヤリを捨てたそうである。
またファントム墜落騒動で集まった新聞記者や警官が、朝から晩までコーヒー一杯でお店に居座り、他のお客の迷惑になったのも当時ならではの情景である。


昭祐さん 「分からんでもなかったね。(学生運動をしていた学生とは)同世代やけど、分からんでもなかった。まあねぇ、日米安保ということでやったんやけど、その当時はね、九大の若いやつがやるのは分からんでもなかった。それはやっぱり日本がこういうふうにちゃんとなるための一つの過程だと思いますよ。ちゃんとした国になるまでの……
まあその当時、それ(学生運動)にはまり込んで全然ダメになったやつもおるし、それやったって、社会に出て転向してちゃんとした生活を送ったやつもおるんやけど、ハマリ込んでそのままいっちゃったってやつも結構おるね、それでね、もう人生棒にふったっていう……ええ。
分かるんやけど、人を巻き込んでやるというのはね、それはね……行き詰まって、とどのつまりが連合赤軍やら……もうみんなが離れてしまって。」

■九大生との絆

学生相手に金儲けちゃいかん!


今は亡き清左右衛門さん(左)
「あいつら親の金でここに来とっちゃけんさ、儲けるならよそで儲けろ」、「九大生に安くてうまいもんを食わせて国を担う人物になってもらう」というのが初代大将・清左右衛門さんの口癖だったそうである。
「ここで飯くって卒業していった連中」は、今でも帰ってくると店を訪れ、「サヨンなくなったら、俺たち箱崎に帰って来っとこないとよ、頑張ってサヨンだけは置いとってくれ。サヨンがなくなったら寂しい、、、」と言う。

清左右衛門さんの年代の人(70-80代)も、今でも店に来ることがあるという。
そうした九大生との思い出は山のようにある。ツケで山のように飲み食いする学生、一人暮らしの下宿を引き払い、突如お店に押しかけて「これからお世話になります!」と2年近く居候した学生、飲んで店先で倒れ、警官が来たものの起き上がってはまた飲み直す学生、パチンコで勝って後輩を連れて深夜まで飲む学生、、、九大のアルバイト学生をキャンプに連れて行ったところ、大騒ぎして脱ぎだして、キャンプ場から出入り禁止になったこともある、、、どれもが今となっては良い思い出である。

■九大生の変化

昭祐さん 「変わった変わった、昔の人(九大生)はねー、ありえないくらいにやりっぱなしでやってましたからねー。で、今の(学生)は真面目。マジメ、ぜんっぜん違うよね。昔はねー、もうありえなくらいやってましたからね。飲みもねー、あいつら半端じゃなかったもん。」

(九大生)「大将、今日朝まで飲んでいい?」(大将)「ええ加減にせえ!」というやりとりが日常茶飯事だったそうである。
飲みつぶれて表の道路で寝て、また起き上がってきて飲む学生もいたが、「今の連中はそんなバカなことするやついない。」

昭祐さん 「(最近の学生の変化は)親の背中をみているからかなぁ……その……稼ぎを。……どうなんかなぁ?!」

■九大移転

伊都に移転した先生方から「向こうに来んね?」と言われるものの、「60年も箱崎にいてね、行く気にならん、動かしきらん」という。

昭祐さん 「今63(歳)、私の代で多分終わりますよ、終わると思うけど、盆正月にあいさつに帰ってきたときに、『あ〜サヨンがあったね』って、俺はそれだけでいいと思うっちゃん。もうそれだけでいい。」

店構えと屋号が変わっているためか、サヨンの前を「行ったりきたりしとんしゃぁ」人がおり、店に来て「すいませーん、ここ昔サヨン食堂じゃなかったですか?」と尋ねてくる卒業生が今でもいるという。
九大の移転に関しては「九大は抜ける、箱崎つぶれてもは知らん、、、そんな感じを受ける」そうである。 昔は8〜9割が九大生だったが、今は半々(「学生のほうがちょっと少ない、6:4ぐらいかも分からんねー」)とのこと。九大生の中でも特に工学部の学生が多く、8割ほどは工学部生だった。昔はカウンターでも予約しないと入れないほど客が多く、4人ほどアルバイトを雇っていた。時間も朝の3時か4時までやっていたが、工学部が移転して「ありえないくらい減った」そうである。「しょうがないですよ」(昭祐さん談)。

■九大生へのメッセージ

「お客さんは少なくなったけど、年寄り3人で頑張って何とかやっとります。サヨンの親父が今日も待ってます!」


謝辞:当記事で用いている路面電車の写真は、中村博氏より提供を受けました。写真の使用をご快諾下さった中村氏にこの場を借りてお礼を申し上げます。
中村博氏のHPは こちら

■□ サヨン写真集 □■

 ※ サヨンに関する写真は こちら をクリック(別ウィンドウでスライドショーを表示します)

■□ 「元祖学食!! 時代は流れて姿消す」(西日本新聞,1997年6月17日,夕刊) □■

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(C)2008 箱崎九大記憶保存会