思いで放談〜あの頃の九大、あの頃の私たち


■ 村岡卓子さん(61)

■ 三浦つよ子さん(60)

■ 小野佳代子さん(59)

  • 九大との関わり
:

原町の農場にて(右手が三浦さん)
私は昭和44年の11月10日、九大に採用されまして、それからずっと文学部におります。最初は、法学部の玄関から入ってすぐに受付というのがありまして、文経法教・4学部の先生方のメールボックスがあって、そこに2年半ほどおりました。その後図書掛にかわり、現在まで勤めています(2009年3月をもって退職予定)。うちは祖父が原町(糟屋郡粕屋町)の農学部農場に勤めておりまして、父も医学部に勤めていましたので、九大勤めは私で三代目です(笑)。
: 私は昭和41年に九大の生協に入協しました。最初は経理におりまして、その後購買部、最後は書籍部(文系)で辞めることになりました(2007年度をもって退職)。
最初は粕屋町に住んでおりましたが、結婚してから箱崎に住むようになりました。その後、緑が丘に引っ越すまで、20年ほど箱崎に住んでおりました。鹿児島本線から歩いて0秒(笑)、米一丸のお堂の向かいに米一丸会館というのがあり、その裏の、変電所との間の狭い路地に住んでいました。今はもうなくなってしまいましたが。
: 私も2年くらい住みました(笑)
: 私は昭和45年の4月に、法学部の会計掛に入って、5年ほどして図書にかわって、それからずっと法学部(の図書掛)におります。再来年の3月(2010年3月)までで退職となります。
私は母の実家が箱崎で、今の箱崎2丁目ですけど、昔は御茶屋跡とか網屋町とかいう町名が残っていまして、御茶屋跡の八組というところが母の実家でした。小学校の2年まで箱崎小学校に通っていたので、子どもの頃の記憶というか、昭和20〜30年頃の九大というのは、よく遊びに行ったり、運動会があったりだとかで、覚えております。昔はマンションやアパートなど、お風呂がついているような(学生向けの)住まいはありませんでしたので、母の実家は貸間をしていました、下宿屋さんですね。貸間札というのを軒先に下げておいて、2階を学生さんに貸している家が多かったです。戦前から何十年と2階を貸していたように思います。
御茶屋跡というとお天神様の近くですか?
: まだずっと浜側で、ともえ食堂並びです。今も家はそのまま残っています、木造で格子戸なんですよね、昔の家は。だから福岡市の古い家っていったら写真とらせて下さいってみえたこともあります。
お三方とも九大とはもとより繋がりが深かったんですね。昔の学内の様子だとか、思い出に残っているエピソードだとかございますか?
: 小学校1年生、昭和30年前後の記憶なんですけど、理学部の今はプレハブが建ってますけど、昔は運動場だったんですね。そこで運動会があっておりまして、それは学生というより職員の運動会だったと思うんですけど、楽しみのない時代だから、そういうレクレーションが多かったように思いますね。そして松林でしたね、この辺り一帯は全部松林でした。今は地下鉄が走っていますが、あの上に昔は電車が走っていて。
: 松林だったね、両脇はほとんど松林。
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貝塚駅を発車し松林の脇を走る電車(昭和45年頃)
今も所々松林が残っていますが。学内も今は色々建てかわっていて、中央図書館がありますが、あそこは農学部の木造の校舎だったんです。だから中央館の土地は農学部の土地って言ってたけど(笑)、あそこには農学部の事務室がありました。
: だいたい私が入協した頃、木造の建物がものすごく多かったです、生協の食堂も木造でした。私は経理にいたんですが、経理が入っている建物の2階を全学食堂といっていました、今のまつぼっくり保育園があるところです。二階建てで、上が食堂で、その横にも木造の建物があって、そこではカレーやうどんをだす軽食堂が入ってました。ほとんど木造の時代でしたね。
生協本部は今でも木造ですが、あれは昔からですか?
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生協本部(元・第三学生寮)
あれはもともと第三学生寮と申しまして、生協は、昔は国からタダで土地を借りて、生協をやれてたんですね。ひとつ場所をかりて食堂をつくると、その場所が生協のいわゆる既得権のようになって、規模が大きくなると、色んな場所を大学が貸してくれたんですね。で、食堂とか書籍とか購買は、学生の福利厚生に組み込まれていましたから、それを充実させる目的で、じゃあ経理の人はどこに行ったらいいのということで、今の木造の所(現・生協本部)にいったんです。
当時はあそこは第三学生寮でしたので、学生さんが引っ越した後だったんですね。玄関を入るとムシロが下がってまして、めくると中に石炭があってですね(笑)、その石炭を食堂の燃料にしようとリヤカーで運びましたね。一番印象に残っているのは、クラシックのレコードをいっぱい残したまま引っ越していった学生や、それから全集、そういったものが残ったままになってました。昔の学生さんは本とかレコードとか沢山持ってらして。ついでに布団も捨ててありましたけど(笑)。それから始まったんですよね、あそこは生協の事務所として。すごい、汗と血と涙と、本当に、、、
話はもどりますが、理学部のあたり、今は建物が建ってますが、あの辺は砂浜でしたよ。
: そうそう、砂浜。箱崎の浜はもうずっと埋め立ててあるでしょ、でも昔は3号線渡ったらすぐ海って感じだったんですよ。
: 学内にも砂地がいっぱいありましたよ。
: 昼休みに貝掘りにいって(笑)
: そうそう(笑)
: 貝掘りできる時間があったくらい。
: 時間がゆっくり、ゆっくり、今みたいに目まぐるしく時間がたたないから。
: それとやっぱり、緑が、松林も含めて、緑がすごくありましたよね。
: 今も所々のこってますけど。

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  • 九大農場
:

一升瓶をかかえた三浦さんの祖母(右)
私は農場育ちなので原町の農場の思い出がたくさんあります。勤務時間っていったら普通8時半から5時だったんですけど、農場は確か8時に始まって、4時半になったら帰っていました、4時半になったらサイレンがウーとなって。私の生まれは、戦後のものがない時期じゃないかと思うんですけど、農場では牛は飼っていたし羊も飼っていた。だから牛肉もジンギスカンも、当時としてはよく食べたし(笑)。できるものといったら羊の毛糸で、これがものすごく良い毛糸で、セーターを編んでもらったりですね、野菜はとれ放題、お米もとれ放題でしょう。だから食べ物にものすごく恵まれてて、お陰さまで健康優良児、福岡県で五位になったんですよ(笑)、表彰されて。
うちの祖母は毎日まいにち一升瓶で牛乳をとってくるんですよ、毎日牛乳を一升。それを一日で飲んでしまって、毎日毎日牛乳飲んでいましたね。
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九大農場の入り口に停車するバス
お宮のところに東福岡バプテスト教会てありますよね、あそこの幼稚園に私は行ってたんですけど、それこそ農場に芋ほりに行ってたんですよ。あの頃、昭和29年から30年くらいだったと思うけど、幼稚園児みんなで行って、農場で芋をほってる写真とかあるんですよね。だからあそこに行くと食事とかあったのかもしらんけど、農場は(笑)。
: ちっちゃい時、私は農場の真裏に住んでいました。
: 中学校が一緒なんですよ。たまたまそれが分かって、中学の一年違いというのが。中学の卒業アルバムを見ていたら、「あっ、この先生知ってる、あの先生知ってる」って(笑)
: その頃の農場は私たちも遊び場でしたね。
: お米をとったあと、藁を組んで山をつくって、その上に乗って遊んだりとかね。
: そうそう。
: いつ位だったかな、農場から牛乳が来てたんですよ。だから私たちは牛乳を入れる箱を作ってもらって。今はキュウリとか、少なくはなったけど、まあ今もきてますね。でも前は牛乳は毎日きていました。
お三方がお知り合いになったのは九大に入ってからですか?
: そうですね。
: 小野さんが独身のとき、私の所に遊びに来て写真を見てたんですよね、まだ22、23のときかな。そしたら「これ私!」って。どうも小学校2、3年のときに一緒にレクレーションで遊びにいってたみたいで。「これ弟!」とか言ってね。
: そう一緒に写ってる写真が。うちにも同じものがありましたね。
昔はレクレーションがよくあってたんですよ。私が覚えているのは工学部の上の方で、映写会があってたのを覚えていますね。農学部のレクレーションで遊びに行ったのを撮影して、それを職員の人たちが集まって、みんなで観るといった行事があってましたね、私が小学校1年生くらいの頃かな。私が映ってるのを観てみんな笑ってて、子供心にすごい傷ついたのを覚えています(笑)。何もなかったからね、テレビもないし、そういう時代だったから。
: 私たちが小学校4年か5年のとき出てきだしたんよね、テレビが。
: 昭和30年ぐらい、映写会でもみんな集まってね、観たりしてた時代でした。今そんなのしても来る人いないよね(笑)
: とにかく昔はレクレーションがよくありましたね、教職組もうそうだし、生協の労組も、レクレーションをよく、やれ運動会だ何だのと。それからメーデーもありましたしね。
: メーデーはですね、部屋に一人くらい残って、あとは全員参加でしたね、図書掛なんかも。

第44回福岡地区統一メーデーの様子(昭和48年)

旗には「九州大学法文経教職員組合」とある

組合青年部主催 もちつき大会

昭和48年12月 文系棟中庭にて

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  • 箱崎のこと
: あと、昔は下宿、間借りばっかりでね、今頃みたいなマンションはほとんどなくて、ちょっと余裕のある家はほとんど間貸ししてましたね。
:

箱崎に今でも残る数少ない銭湯・大学湯
間貸しの札が掛けてあるのを見て「あーあそこの家も学生さんが出たのかな」って、札をみて(分かって)。今は下宿ていう言葉も分からないでしょ、今の学生の方はね。「下宿ってなん?」て。あれはあれでいいよねえ、病気したときも下宿屋のおじちゃん、おばちゃんたちが面倒みてくれるし。
それと、お風呂屋さんも箱崎は結構多かったけど、今はもう大学湯だけですよね。前は結構あったんですけど。恵比寿湯、梅嘉の近所ね、今は駐車場になってるけど。
: かなり沢山ありましたよね、新楽湯があったでしょ。
: で、ユニードの前もあったでしょ。
: 今、あそこユニードっていうの?
いえ、グルメシティー、ダイエーです。
:

閉店してしまったプランタン
あそうですか、すいません。今の情報には疎いんですけど(笑)、あそこ(ユニード)の道を挟んで向かいにはですね、昔、引き揚げ者の為の食堂があったんですよ。名前はちょっと思い出せないですが。70何年までありましたよね。
: おっきいよね、結構おおきいよね。
: うん、かなり大きい。その食堂が気がついたら中華料理屋さんやらに分かれててびっくりして。あとはプランタンが有名な喫茶店でしたよね。
: サヨンもあったよね。
: サヨン食堂ねー
: あの九大前の電停のそばに、昔からありましたね。
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食堂時代のサヨン(現在は居酒屋)
サヨン食堂は九大生の人はいっぱい行ってたし、そこのお嬢さんが西鉄ライオンズの田中久寿男のお嫁さんになっちゃったりとか。
: あと街燈とかもあったね、飲み屋さんが。今あの、箱崎駅のあっちの方に引っ越したけど。
: 営業している人は違う?
: いや、一緒じゃない?
もともと三角屋という立ち飲み屋を帝大前でされていて、その後娘さんが継がれたそうですよ、街燈という屋号で。もうお店はおやめになってるようですけど。
: ああ、そうですか。
: それからあそこのラーメン屋さん、だるまラーメンだったかな。
: だるま、あのチャンポンの美味しいところ?
: あの(帝大前の)カーブの所にだるまラーメンってありましたね。
: その裏が麻雀屋さんか何か。
: 麻雀屋さんけっこうあったね。
:

移転して屋台から店舗へとなった赤のれん
そのラーメン屋さんも結構有名で、油がギトーっとしたラーメンだったんだけど、遠くから食べに来る人が結構いましたね。
: 赤のれんもあったよね。
: うん、赤のれん、あの汚いときの方が美味しかったよね。
: 屋台だったよね、それこそ恵比寿湯の横でね、ラーメン屋台をしてましたね。
: で、私たちが行きはじめたときはもうお店になってましたね。
一昔前は、筥崎宮の参道脇に屋台がずらりと並んでいたと聞いたのですが。
:

現在は大学通りにある藤よし
そうですね、あそこは何軒も並んでたのが、今はもう花山だけになって。あの参道に並んだ屋台にはよく行ってましたよ、花山ではないですけど。あと藤よしっていう焼き鳥屋さん、あそこも最初屋台だったんですけど、九大前のところにあったのよね。行ったことある?
: 行ったことない。
: 九大前の近くに、屋台じゃなくて、焼鳥屋さんになってあって、で、今のところに移ったんですけど。藤よしの由来はですね、初代のオーナーが藤原義江にそっくりだったんですよ。有名なオペラ歌手の。そっくりだったんですよ、顔が。それで屋台に来る客が、全員で、藤原義江に似てるから「藤よし藤よし」って言ってたんですよね、それで「藤よし」に。ちなみにそこは私の父も通っておりまして(笑)。
: あのおじちゃん似てたね、声も大きいし。
: 声も大きいし、背も高いし。
: 千鳥寿司ってありますでしょう、あそこの前は昔バスが通ってたんですよ。確か国鉄バスだったと思いますけど。
: うん、今は向こうの(浜側の)通りを走ってるけど。(九大)病院前からまっすぐ来ていたのが、途中からこうまわるようになって。
:

現在のきんしゃい通り
バスが通ってたし、あの辺りはたくさんお店がありました。今はもうほとんどマンションになってますけど、毎日マーケットのある通り(現在のきんしゃい通り)。あの通りはお店がたくさんあったんですけど、最近行くたびにお店がなくなってマンションができて。だから箱崎はあそこの通りが賑やかだったんですね。魚屋さんにしろ八百屋さんにしろ、色んなね。
: で、箱崎は海が近かったから、新鮮な魚がいっぱい、リヤカーで。
: リヤカーでおばちゃんが来てあったね。
: シャコも山盛りいっぱい。今頃シャコは高級品になりましたけど、山盛りだったですよ、昔は。だからあそこはそういうお店がいっぱいあって、周りに飲み屋さんがたくさんありましたね。こっち(箱崎)は六本松と違って学生さんが二十歳を超えてるから、飲み屋がいっぱいあったよね。
今はきんしゃい通りと言います。
: へー、きんしゃい通りになってるんですか、なんか寂しいですね。
: あそこは昔、お総菜屋さんみたいなのがいっぱいありましてね、おでんのタネ屋さんとか、刻んだ野菜を量り売りしたりとか、そういうのがいっぱいありましたね。
で、昔は卵がスーパーとかじゃなくてお店で、卵屋さんというのがあったんです、その通りに。卵屋さん、タマゴだけ売ってるんですよ。もみ殻の上にタマゴを並べて、10個ずつ新聞にくるんで。
: あったねー、タマゴが貴重な時代でした(笑)バナナも病気したときしか食べられない時代だったから。
: そうそう、それと同じぐらい(笑)
: 昔はもっとゴチャゴチャしていたような感じ、街でも。
: 箱崎はごちゃごちゃごちゃごちゃ、、
: 街がきれいになったっていうのは、まあどこでも言えることかもしれんけど。
: 楽しくなくなったですねー。
: うん、ちっちゃなお店がたくさんあって、、
: おじちゃんとおばちゃんがやってるようなお店で。
:

福博の街を走る花電車
そういうのが結構多かったですね、箱崎は特に。焼けてないですからね、戦災で。
昔のお家が多いでしょう。だから九大からこちらの方は(南側)は大きなビルもないし、あの一帯ね、二丁目とか周辺は。それこそ商店街のほうはビルやマンションの十何階というのがどんどん建ってますけどね。
電車も、昔は花電車がどんたくの時に通って。今は花自動車でしょ、昔は電車だったんですよ。だから夜はきれいでね。で、そこ(九大中門電停〜貝塚)を通るでしょ、そしたら私たち、「あ、電車がきたー」っていって、職場からパーッと走っていって、みんなで眺めてね。そうしても誰も何にも言わない(笑)
: どんたくの時は、帰りよったよね、昼からね(笑)
: そう開学記念日とね。
: 交替でね、「帰っていいよー」って。
:

最後の花電車(1975年)
5月11日(開学記念日)とどんたくの時とで半分半分で帰ってよくて。
それと今みたいに週休2日じゃなくて、土曜日半ドンだったから、あの時代も結構良かったよね。
: 半ドンは良かったね、結構ね。
: 出たついでにみんな天神とか遊びに行ったりしてたから(笑)
: とにかく箱崎一帯で生活のすべてができる。今はないお店のほうが多いよね。
: JRの駅が高架になったから、随分とそれで変わったんじゃないですかね。
: 高架になる前の踏切の前後、お店がいっぱいあって、夜遅くまで開いてるお店が沢山ありました。
: で、道幅が狭いから、こっちの飲み屋さんから向かいへと、(すぐに)こう行けるような狭さだったから。新楽町の。
: あそこ繁華街でしたよね。
:

様変わりした新楽通り(奥が原田方面)
西京(現・さいきょう)自転車屋さんがあるでしょう。あそこから原田に向かうあの通りです。あそこは今道幅が広くなってるから、もう昔は、、
: 昔は今の道幅の三分の一位だったよね。
: こっちのお店とこっちのお店同士で、声かけたら「なん?」て言えるような距離がね、それくらいしか離れてなかったから。
: 中華料理屋さんにラーメン屋さんにスナックにうどん屋さんに餃子屋さんに、、、
: 餃子屋さんね、梁山泊とか、美味しかったねー、もうきたなーい所だったんですけど(笑)
: 土間みたいな感じの床でね。
: で、そこのマスターが昔ジャズマンでね、深江さんて言う人かな。
: 結構有名なね、人が多かったね。
新楽通りは片側だけ残ったんですよね、上滝とか、、、
: そうそう、上滝も古いね、私が子供の頃からある。
: あの(新楽通りの)並びも飲み屋さんがいっぱいありましたね、「此の花」とか「松風」とか。此の花のママさんとかは、ものすごい有名じゃないでしょうか、私たちより年代が上の方には。十何年くらい上の先生たちなんかは、よく行ってらっしゃいましたね。特に工学部の先生たちは。
: 結構そういうお店が多かったですね。で、前は一光寺にお相撲さんが来てなかった?
: 来てたね。
: お相撲さんが新楽町に飲みに来たって覚えてますね。
: えっと、梅嘉の裏の…
: あそこは新しい、お天神様も来てるけど。だから箱崎の街は、九州場所の季節になると、新楽町界隈でお相撲さんを見かけてましたね。
: それと放生会が始まると、箱崎界隈のモヤシがなくなるんですよ(笑)、露天の焼きそばで使うあれで。
: 私がちっちゃい時に覚えているのは、まだ戦後すぐだったから、白い服を着て兵隊さんの格好して、足が半分ないような人がアコーディオンを弾きながら、首からお布施じゃないけどお金を入れる箱を下げて。放生会でよく立ってあったね。
: よく立ってあったねー。でもあれは本当じゃないんだって言われててね、戦争でなくした人は補償されてるから、ああいったことはしないって。
本当よね、放生会といえば必ず立ってあったねー。
: そうそう、アコーディオンを弾いて歌いながらね。
: お汐井取りもあってたね、箱崎浜で。今は浜がもうだいぶちっちゃくなってしまったけど。
: 都市高速が前を走って風景が変わってしまったね。

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  • 組合のこと
組合のことなどもお聞かせ願いますか?
: 私が入ったときは、150名以上いたんじゃないかなと思います。
: 入ってない方が少なかった。図書掛に行ったとき、「組合に入りなさい」って言われたんですけど、「少し待ってください」って言って、一年位入らなかった。何か肩身が狭い思いをして、今と反対で。
あの頃一日ストもしたんですよ。一日ストなんて今はとんでもない話ですけどね。千代町に東体育館(現在の福岡市民体育館)てありますよね、あそこでバレーの試合をして過ごしたということがありましたね、ストの間に。

全一日スト・学内風景

昭和49年頃
: 福岡の市内デモとかが結構あったんじゃないかと思います、今はあんまりデモっていうのがないけどね。
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東公園全体集会の様子(昭和49年頃)
ここから出発してですね、天神に着くまで、電車よりも早くデモ隊の方が着いたっていう記憶があります、走って。
九大は教員と職員と一体の組合ですよね?
: そうです、教職員組合です。でも当時は職員の方がほとんどでした、職員が多かったですね。
労働環境の変化は?
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市内デモの様子(昭和49年)
やはり昔はのんびりしてましたね、どこでもそうかもしれんけど。先生方もゆっくり余裕がありましたよね。
: 自分の研究しとけばいいって感じがありましたよね。今は事務的なことが…
: 今は会議だとか色んなことに振り回されて本来の仕事ができないんじゃないかと…
法人化してからの変化ですか?
: いや、その前からですね、法人化してからは特にそう感じますけど、その前から。私たちが入った頃と、法人化前の10年を比較しても、私たちが入った頃の方がずいぶんゆったりしてましたね。何かゆったりしてたって言ったら仕事してないようだけど(笑)、たぶん機械がはいって、機械に振り回されているというか、会話もあまりなくなって。まあ昔は、自分たちでしていた時の方が、色んな話しをする機会が多かったけど、今は機械でするから、職場がなんとなくシラーっと、シーンとしてるんですよね。だからそれが良いかっていうのは、分かりませんね、未だかつて。便利になった面もあるけど、あの時の方が病人が少なかったんじゃないかな(笑)、結構病人が多いそうですよ、どこでも。
: そうですね、病人が増えたっていうのは確実にそうですね。
: 福岡市とかでもそういったことを聞くから、どこでもそうなんかもしれないけど。
: うん、私たちみたいな生協でも、産業医は九大にいる先生だったんだけど、やっぱりうつ病に対して、店の責任者はどうやって対応をしたらいいか、研修を受けさせられるんですね。
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図書館交渉での一コマ、煙がモクモクと
ちょっと話は変わりますけど、昔はタバコを職場で吸う人が多かったんです。私たちが(九大に)入ったときの仕事のやり方は、朝来たらまず灰皿の掃除からはいってました。男性ほとんど吸ってたんじゃないですかね、あの当時。
: そうですね、サービス業の私たちも、まず灰皿掃除。(生協の)店舗の前は吸い殻掃除から始まる。
: 私たちもそれに慣れてるから、もう煙がモクモクしてて。今はね、、、
: 当時は職員も多かった。今は一つの掛で3,4人、掛長・主任・職員ていうけど、昔はね、文学部の庶務なんて7,8人いたんじないですかね。運転手さんもいたしね。
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公用車と運転手さん(推定昭和30年代)
公用車がありましたよ、4台、黒塗りの立派なね。(文経法教)四学部に一台ずつあるんですよ。それぞれ運転手さんがいましたよ。学部長になると、ちゃんと送り迎えがつくという。だから、車庫なんですけど、今「北門書庫」てあるでしょう、あれはもともと車庫だったんです、車庫が書庫になって(笑)。

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  • 学生のこと
: 文学部は昔から女性が多かったでしょう。法学部は、私が入ったころは女子学生って少なかったですね。最近は(男女)半々くらいになっていると思うんですけど。
: 女子学生は増えましたね、ものすごく。農学部も工学部や理学部に比べると女学生が多い方ではあったんですけど、今はもっと、すっごく増えました。それと留学生ですね、増えました。
: 昔は下駄を履いてきている学生がいて、廊下をあるくと音がして、もう今はそういう学生は見ないけど。
: キレイになりましたよね、学生さんが。
: そう、きれいになった(笑)、男子学生ね、特に。昔の男子学生はむさ苦しいのが沢山いました(笑)、そう言ったら、この辺の先生方は昔そうだったって言っているみたいですけど(笑)。
: (一同笑い)
: 今の人ってお洒落よね、男子学生、キレイだし。
: キレイになりました。
: 昔の男子学生はあまり構わなかったんでしょうね、身だしなみに。
: でも今、生協からしたら、昔の学生さんのほうが手がかからなかったというか。やっぱりですね、世の中と一緒で、色んなことに関して学生さんが賢くなったのか、、、とにかく、色んなクレームとかの内容が変わってきましたね。事前に説明しなかったとか、表記してなかったとか、、、
: 前さあ、言わんかった?下宿屋さんに行ってビックリしたって。持ってるものが昔はね、リンゴ箱とかいうのがあったんですよ、ダンボールじゃなくて木の。それを机がわりにしていて。そういう時代を見てきている人が、ある日(現在の学生の住まいに)行ったら、電化製品はあるは、風呂やトイレはあるは、もう昔の学生さんの(生活)スタイルとすごい変わっていて、ビックリされたと。
: 入学して、(学生が)お部屋を借りられる時から変わりましたよね。今は(生協が)六本松で不動産業なんかやってますけど、昔の間借りっていうか、一部屋を借りられる方は少ないです。新築から順に埋まっていきますね。やっぱり親御さんの年収がどんどん上がっていっているのを実感しますね、毎年毎年。入学式には必ず親御さんが付いてこられるのも、本当に変わったなあ、と思いましたね。昔はなかったですもん。
: ある意味昔の学生のほうが大人だったのかもしれないですね。
: ような気がしますね。
: ね、自立できてたのかもしれない。
: (生協で)お引越しも扱ってますけども、今学生さんが一人でお引越しされるのは、院生で、とても忙しい方が一人でお引越しされる。院生の方が増えましたでしょう。今学生さんの引越しは必ず親が手伝います。
: そうですね、下宿してて親が来たってあまりなかったですね、下宿屋さんに。
: もう荷物の量が違うんですよ、昔は本と何やら風呂敷一つで済んだのが、今は家電から何から、、
: 冷蔵庫からテレビから何でもかんでもね。あと、アルバイトする場所も増えたんじゃないですかね、昔と比べて。昔の学生さんはアルバイトするといっても家庭教師くらいで、あんまりなかったんじゃないかな。今は沢山ありますよね。

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  • 先生たち
先生方との交流で記憶に残っていることは?
: それこそ社会学の内藤莞爾先生にはかわいがってもらったけど(笑)、あの頃は。図書の部屋に入ってきて、「おい、お茶」って言われるんですよ、図書掛で。でお茶を出してお菓子を出して、飲んだら「おい、ウィスキーがあるから部屋に来い」って言われて、2階の(内藤先生の)部屋にあがってウィスキーを一本もらって帰ったりだとか(笑)。先生は「戴き物だけど」っておっしゃってたけど。
: 教官の部屋にはお酒はいっぱいありましたよね。農学部とか実験がある講座って結構。それから卒業生がそういうメーカーに就職しますよね、協和発酵だったり、そうするとお歳暮とかお中元とかで、講座にお酒はいっぱいありましたよ。 T先生も飲んでありましたね、農学部の先生で。
: 独文のT先生っていらっしゃったんですけど、横綱審議会の委員をされて東京にいかれてて。出勤簿の検査があったとき、(先生の)出勤簿に丸がついてて、判子が押してあったら、「Tさんはこの時期福岡におるはずないだろう、東京で相撲があってるのに来るはずないだろう」って言われて、「いや、先生は飛行機の定期をお持ちで」って言ったという笑い話があるんですけどね(笑)。
学生運動の盛んな頃、職員の方々のお仕事はいかがだったのでしょうか?
: 私はその後に九大に入ったのですが、法学部の職員は山王公園のほうに避難していたというか、だから仕事という仕事はできなかったんじゃないでしょうか。
: 一日編み物をしていたとかいう。
: そういう話は聞きますね。
: ここ(学内)が通れなかったんですよね。
: そうねえ、占拠されてね。先生達もなかには、学生達から何時間も団交で閉じこめられてっていう話は、(九大に)入った頃よく聞きましたけど。
: 丁度あの頃、法学部の井上正治先生が、学長だったんかいな、文科省が許可せず
: 事務取扱にね
: 「警察は敵だ」って言ってね。
: 有名な先生だったけどねえ。
: あの頃は大変だったねえ。
: 菊池勇夫先生っていう労働法の有名な先生がいたころは、戦前くらいの昔の、旧七帝大の気風を受け継いだ時代だったと思うんですけど。学長にもなられた先生で、名誉教授で時々みえてたんですけど。
: 来てあったね。トコトコトコって歩いてきて、「菊池」っておっしゃって。「どうぞ」って鍵を両手で慇懃に渡してたもんね。
: そうそうそう。威厳のある先生でしたね。
: 昔はユニークな先生が多かったですよね
: それこそ柳先生、石炭研っていうか、昔は産労研っていった、あそこに柳春生さんていう、ちょっとお変わりになった先生が(笑)。寝泊りしてあってね、網の買い物籠を下げて買い物に出かけて、あそこで煮炊きして(笑)
: あの先生は箱崎の商店街で有名な、あの四角い網の籠をぶら下げて、下駄か草履かなんか履いて。
: すごく長生きされて、もう亡くなられたと思うんですけど。
: つい何年か前よね、でも。よく来てあったね、ここにも。
: 工学部食堂で、外の自販機から買ってきたカップ酒を飲みながら定食を(笑)、それこそ何年か前までいらっしゃってましたよ。
: 退職金があるのも知らなかったという、それぐらい浮世離れしたね(笑)
: 飄々とね、身体よりおっきな荷物をかかえて学内を歩いて。
: 乙羽信子さんの大ファンで、一生懸命手紙を出したという話はよく聞いてましたね(笑)
: そういうユニークな先生が結構いらっしゃいましたよね。
: ちょっとなんかこう、違うんですよ、人間離れしてるというんじゃないけど(笑)、世間とは、何か。
: いわゆる学者肌というか、学問の世界では超一流かもしれないんですけど。でもそういう先生は生協の職員とかに対しても丁寧に接して下さいましたね。だから変わってらっしゃるけども、良かった。
とりあえず農学部では、飲兵衛の先生が多かった。お酒を飲むっていうのがよくありましたよ。昔は今みたいにお酒飲んで車乗ってもあれだったし、そもそも車に乗ってなかったですしね、皆。酔っ払って自転車で蛇行しながら帰るという(笑)
事務室も結構ね、五時過ぎたら、アフターファイブが。
: そう、だから、五時過ぎてみんな飲んで帰っていいような時代だったんですけど、皆車に乗り出して、、
: そういうコミュニケーションとかがなくなっていきましたね。

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  • 職員たち
最近は大学職員になるのはかなりの難関のようですが、若い職員の方々は?
: エリートばっかりですよ。公務員試験難しいもんね。
: 昔は大学出ている方が少なかったよね。高校卒業してっていう人が結構多かったけど。
: そうねえ、ものすごく高学歴になってきてますけどね。
: でも懇親会とかしてもほとんど来ないね。
: 今の若い人全体がそうなのか、ここに来ている人がそうなのか、その辺は、、、よく分からないけども。だけどそれはそれで、私たちはこれまで仕事は支障なくやってきてるから、高学歴であって、それ以上の数倍の仕事ができるかっていったら、また別の問題だと思うんですよ。個人の仕事に対する気持ちというか、どれくらい周りに対する心配りがあるかというのが、まあ、人それぞれかもしれないんですけど、私が見た感じではですね、言われたことは完璧にするかもしれないけど、ちょっと気をつかってこう、どうでもいい成果とならない仕事ってあるじゃないですか、そういうのはあまりしない気がします。目に付くことはするけど、あまり目立たないというか、人に隠れてするようなのはどうかなと思いますね、やっているかも知れませんが。
: (今は)三年とかで(職場を)変わっていくから。私たちは何十年と同じ所にいるから、自分の所をよくしようというのがあるよね。
: 愛着心がないですよね。三年ぐらいで換わるなら適当にこなしておけばいいかーっていうのが。
: あとね、プロが少なくなりましたよね、私たちからするなら、業者からするならね。
: こういう風に(事務が)統合になったら特に、やっぱり、ごちゃごちゃしてるんですよ、中は。外部の人からは分からないけど。例えば外部の人がポンとここに来ても、どれだけその人に、相手が知らないことをどこまで説明するかっていうのが、一番大事だと思うんですよ。で、自分は分からなかったら「分かりません」と断る人もいるし、分からないなら分からないなりに、この人に聞けば分かるというのを教えてあげるというのがありますよね。答えをとりあえず出してあげるっていう、そこまでする人と、最初から分からんなら分からんで撥ね付ける人と。だから交通整理じゃないんですけど、そこら辺でずいぶん違ってくると思うんですよ。どこまでこうちゃんとできるかっていうのが。長くいればいるほど、何でも知っておかなきゃいけないっていうのが私たちの中にあるので、何か聞かれたら最大限、相手には伝えようという気持ちはあるんですよ。
: 今、自分の学部の先生の顔知らないっていう人もいますよ、職員でね。
: 私たちは長くいるから細かいところまで分かってるんですけど、そこまでは2年か3年じゃ、なかなか覚えられませんよね。
: でも顔と名前を覚えているっていうのだけでも、事務のスピードは、処理するスピードが違いますよね。だから段々、プロの人が少なくなったなって気がしますね。
: この先生の性格はこうだから、早く仕事をしようだとか、この先生はこうだとか。
: そう、そういうね。村岡さんが店長で文系書籍にいるときは、もう電話したら大体分かるんですよ。誰々先生の本がどうのこうのって言ったら、すぐに分かるんだけど。あの先生はこうだから、こうだって、順番が決まって分かってるから速いんですけど、そういうのがね、今からはないかもしれないね。
: あなたたちがいなくなって、(職員の)世代がかわってしまったら、先生たちは自分でする仕事が増えると思います。今はまだ、結構、先生たちは、事務っていうか、書籍のことに関しては、プロの人たちが助けてくれてるけど、やっぱり新しいところは、先生たちは研究の前に事務に能力を発揮するというか、事務に長けないといけない所がね。ものすっごく教官はかわったって、さっきおっしゃってたけど、それはもうすごいですよね、新しい学部になればなるほどね。文系はどうかな、、理学部とか工学部というのはものすごい増えてるんですよね。何とかセンターとか、産学協同とか、そういう建物でグラウンドが潰れてしまってますよね、運動会があっていた(笑)
: それと、昔は講座ごとに助手(現・助教)が必ず一人ずついましたよね。それが今はゼロでしょう。必ず講座に一人助手がいて事務的なことを全部してたからですね、先生も何にもしなくて良かったんですけどね。
:

移転先の伊都キャンパス
それと、最近法学部なんかは先生たちが定年までおられないんですよね。どうかしたら2,3年で出ていかれる方もいらっしゃるし、ここ何年かでも半分は代わりましたね。 法人化になって、国立大学というのがなくなって法人になったんですけどね、やっぱり中央の私大とかに話があれば、行かれるんじゃないかと思いましたね。だから伊都キャンパスになったら、みんな(先生方の顔ぶれが)変わるんじゃないかな(笑)と思いますね。現にそう言われる先生もいらっしゃるんですよ「もうその頃いないからー」って。「その頃みんないないからー」って。ええ、じゃあ長くいる気がないのかなあ、と思ったり。

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  • メッセージ
最後に、九大へのメッセージをお聞かせ下さい。
: 私は図書掛が長かったから、今は予算も少ないし、なかなか本が買えない、揃ってないんですね。以前はちゃんと万遍なく、偏りなく本が揃っていて、よその大学から来た先生も支障なく研究ができるように蔵書をそろえていたんですけど、ここ何年かな、十何年かになりますかね、なかなか予算がなくて、それで「九大にくれば色んな本が揃ってる」っていう地方の大学の先生とかが(尋ねてこられても)、なかなか本がなくて、、、。今は理工系に目が向いているかもしれませんが、やっぱり文系は本が命じゃないけども、蔵書というのは大事だと思うので、もう少し資料をちゃんと揃えていてほしいな、と思います。よく非常勤講師でこられた先生が「えー九大にこの本なかったんですか」って言われたときは、何となく悲しくなって、「えぇそうかー」と思って。よその大学に比べたらちゃんと九大だから揃ってるんだろうなと思いながら仕事してたら、何年か前から、これもないあれもない、この近辺の福大も西南も(蔵書として)入ってるのに、何で九大に入ってないのかな、と思うことが結構多くてですね。だから先生たちも今、科研とか特別な経費で予算を取られたら、もう少し本をそろえて欲しいなと思いますね。
: こんなこと言ったら怒られそうですけど、九大がつぶれないで、いつまでもあるといいなと思います(笑)
: 独立行政法人になったとはいえ、やはり九大は九大にしかやれないことっていうのが、沢山あると思うんですね。そういうものを、伊都キャンパスに行くときに、削ぎ落とされないかなって、思ってしまいますね。やっぱりいくら福大だ何だっていっても、九大にしかできないことは、外から見てて、それは沢山あると思いますね。先ほど言われた本もそうですけど、もっと細かい、理学部の生物とか、農学部の草一本いっぽんですね、九大にしかできないと思いますね。そういうものは(移転しても)きちんと持っていって欲しいなと、切に思います。

2008年11月4日
於:人文科学研究院長室
聞き手:益田仁



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